もう10年ほど前のことです。知り合いとフランス旅行へ行く予定で、私はロンドンからユーロスターで現地合流することになっていました。ところが出発の数週間前、先方の家庭の事情で旅行はキャンセルに。
すでに有給は取得済み、ユーロスターも予約済み。気持ちもすっかり旅行モードだったので、急いでホテルを取り、一人でパリへ行くことにしました。
セント・パンクラス駅でユーロスターに乗車
セント・パンクラス駅はTube、長距離の国鉄電車、ユーロスターが発着する大きな駅です。当時住んでいたエリアの最寄りの駅は、改札とプラットフォームしかない小さな駅だったので、こういう大きな駅でいろんな人が行き交う様子を見るだけでもわくわくしました。
ユーロスターは液体の持ち込み制限がないので、水のボトルと小腹が空いたときのためのチョコバーを購入。セキュリティチェックも無事に終え、搭乗前待機エリアにて予約したユーロスターの便を待ちます。遅れなどトラブルもなく、スムーズに乗車できました。
荷物を棚に上げ、予約した窓側の席に座ります。簡易テーブルを下ろし、お水とチョコバーを手元に置いて出発のときを待ちます。コロナ前はセント・パンクラス駅を発車後、ケントのアッシュフォード駅でも一旦停車しイギリスからの乗客を乗せ、ドーバー海峡を渡るという運行でした。出発の時点では隣の席は空席だったのですが、次の停車駅で誰か乗り込んでくるかもと思い、お行儀よく着席します。
隣の席のイギリス人男性
アッシュフォード駅に着き、さらに乗客が乗り込んできました。私の乗っている車両には、イギリス人マダムのグループとそのグループを引率してるらしきイギリス人男性が乗ってきました。
「はーい、みんないるかな?点呼とるよ!」と男性。マダムたちもこれからの旅が楽しみでしょうがないというのが、押し殺した「うふふふ」という笑い声から伝わってきます。「あなたの席はここね、あなたはあちら側」と男性はテキパキとでも少しコミカルにマダムたちが着席するのを手伝います。
「みんな座れたかな?よし、大丈夫だ!」と最終確認をした引率男性は、「じゃあ僕はここだからね」と私の隣の席に座りました。推定40代半ばと見受けられるこの男性。一仕事を終えて満足そうです。
私は車窓からの眺めを楽しんでいましたが、意識は半分そのマダムグループと引率男性に持っていかれてました。
ユーロスターがドーバー海峡の海底トンネルを走り始めると、窓の外は真っ暗になります。そのタイミングで男性はお手洗いに立ち上がりました。大柄な人ではなかったのですが、隣に知らない人が座っているとリラックスするのが苦手な私。ここぞとばかり、少し伸びをしたり体を動かします。
数分後お手洗いから男性が戻ってきました。私はまたお行儀よく座り直します。ふと気づいたのですが、戻ってきた彼からすごくいい匂いがします。石鹸の香りです。
手を洗っただけでこんなに香りが残るのか?
ユーロスターのお手洗い用ソープはスペシャルなものを使っているのか?
それともこの男性が綺麗好きで、トイレで石鹸の香りのする香水を纏って戻ってきたとか?
男性は「あ〜スッキリした」と言いたそうな表情でヘッドフォンを取り出し、音楽を聴き始めます。
本人は普通にしていても、なんだか笑いを誘うような面白い人っているじゃないですか。そういうタイプに見受けられるんです、その男性。この時点で私はポーカーフェイスを保ちながらも、心の中ではぷぷぷとなっていました。
フランス側に出ると空に虹が、そして、、、
海峡トンネルを出ると、車内に一気に光が差し込みました。フランスののどかな郊外が車窓の外に広がります。雨が降っていたのか、晴れ上がった空には虹がかかっていました。「急きょ一人旅になっちゃったけど、なんだかいい旅にできそう」、ちょっと感傷的になりつつも残っていた不安感を拭えた気がしました。
するとそのタイミングで、お隣の男性のヘッドフォンから音楽が漏れて聞こえてきたのです。
タタンタンタン タン ターン🎶 タンタンタン ターン🎶
誰でも一度は聞いたことがあるはず。ダイナミックなメロディが特徴的な、映画「炎のランナー」のテーマ曲です。
青空にかかる虹、黄金色に輝く小麦畑。そして誰が選曲したのかと思うほど絶妙なタイミングで流れる「炎のランナー」。出来すぎです。
さっきまで少し感傷的になっていたのに、一気におかしくなってしまいました。隣を見ると、当の本人は目を閉じて真剣に音楽に聞き入っています。その温度差がまたおかしくて、吹き出しそうになるのを咳でごまかしました。
パリに到着し、石鹸の香りを纏った男性とマダムたちはホームに消えていきました。しばらくして一人になれたところで、私はようやく我慢していた笑いを声に出しました。
あれからもう10年ほど経ちますが、「炎のランナー」を聞くと、今でもあの虹と、やたら清潔感のある隣の男性を思い出します。
